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2009年7月

もう、七夕が終わってしまった。

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月日の経つのは、早いものですね。『光陰矢如』ですか、そうした言葉に、無常感 ( ここでは、“無常観”ではなく、竹内整一氏の用語を引用 ) をもちますが、現在読んでいる竹内整一氏の「おのずから」と「みずから」・・・日本思想の基層という本には、第三章に無常の反転―「よしなや」から「面白や」へ・・・というところで、「仏教哲理」と、日本人の感覚について竹内氏は、論を展開されています。

そこには、竹内氏が、世阿弥弥作の謡曲、『江口』を題材として、日本人は、ただ無常感だけでに終わることなく、現実に対する執着とか、人生のやみがたい思いを「憂世の夢」、無常と否定しながら、なおそのままに、いわばある種の肯定の相に描き出す・・・といったことを述べられております。

七夕も、一年一度会うことを許された二人の切ない、夏の夜空の無常な物語なのでしょうか?この七夕祭りが日本でも毎年続けられているのは、日本人に育まれた「おのずから」としての無常さと、「みずから」としての現実執着との融合を大切にしているからかもしれません。

景気の不況による、会社経営において、運営が苦しくなればなるほど、「みずから」という自責の念が募れば、経営者の心境は耐え難いものとなります。

しかし、「おのずから」という発想に立てば、心は自由になり、また、新しい発想も生まれてくるものだと思います。それが、会社の建て直しになるのか、それとも、己の建て直しになるのかは、その人の考え次第でしょう。

大切なのは、「みずから」としての無限の努力から、「おのずから」へ、移行することだと思います。努力しても、なおかつ、無常感を持つような事態になったとしたら、そのときは、「おのずから」という発想の転換で、心の自由を解き放つことが大切ではないでしょうか?

「みずから」という籠に入っているだけでは、窒息死するでしょうし、自由な発想は生まれません。自由な発想こそ、次なる人生のステップだと思います。

いつ死んでも良いという覚悟を持てることが、悟りではなく、日々、平気で生きることができるのが悟りであるという禅僧の口から聞いたとき、確かに平気で生きることは難しいと思ったものですが、竹内氏の「おのずから」と「みずから」の本を読んでいて、「・・・ははあ~ん。何事も、おのずからという気持ちでおれぱよいのか!」と、都合の良いように早合点しました。

by  大藪光政

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